看取りについて

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本日も記事を見ていただき有難うございます。


普通の人は、どんな仕事を生業にすべきか?という事をしっかりと考える機会は少ないと思われる。

多くの人は就活をして採用された企業で、労働者として言われた仕事を一生懸命こなし、給料生計を立てる。

しかし、自分で事業を始めると、やりたい仕事、やりたくない仕事を選べるようになり「自分を生業として生きていくのか?」について、考える機会が生じる。

選べるとは言っても、あまりにストライクゾーンを狭く構えすぎると食べていけないので、一定のレンジ内で仕事を選ぶ裁量権があると言うことである。

私は32歳で開業してから「看取り」を生業にすることを選び4年と少しで600人ほどの患者を受け入れ、100件ほどの看取りを行なってきた。

一人医師の診療所として実績の多寡の議論は置いておき、最近は「看取り」の中でも、受けたい仕事、受けたくない仕事がある事に気づいた。

人間、誰もが病気や自然経過により、老い、衰える過程を通り避けられない「死」を迎えることになる。

「死」を前にして葛藤が全くない人は居ないだろう。

私は看取りを行なう医師の仕事は、死を前に冷静さを失いそうになる人たちに伴奏者として寄り添い、オリエンテーションをつけていく作業を手伝う事だと思っている。

本人が自分の内面での作業を完了して完全に死に備えられたとしても、家族や周囲の人間が同じように備えることが出来るかという事は別問題だ。

ましてその「死」に向かうのが自分の肉親ともなると、なおさら受け入れには時間が掛かるものである。

「死」という体験のストレスは、伴奏者である医師にぶつけられることもある。

「死」というイベントに際しては、個人の精神的な準備意外にも、社会的な準備が必要となる。

死の精神的な準備とは、関係者が迫り来る「死」を受容し、過度な恐怖や不安に陥らないで済む様に仕向けていく作業である。

死の社会的な準備とは、患者が死んでも警察が出動するような、社会的トラブルが生じなくて済むよう、必要な第三者の看取り体制を整えていく事である。

これらの準備がうまく行かない場合や、準備していたとおりに事が運ばない場合に、様々なトラブルが生じる。

よくあるのは患者が頑なに「私は絶対に最期まで自宅で過ごすのだ!」と言っても、単身世帯で気づくのが遅れる事を恐れる親族が患者を高齢者施設に入れてしまう様なケースである。

看取りの社会的環境が整わない場合、本人の「死に場所」の希望が叶わないということはよくみられ、看取り場所の判断について現代では本人の希望以外に社会的な要素の重要性が増している。

看取りの伴奏者という医師の立場としては、これらの準備が整わなそうな雰囲気のある看取りは、「したくない仕事」、逆に様々な要素が整っている看取りは、「したい仕事」になる。

「看取り」という仕事は大変地味だが、現在の高齢化・多死社会において「死亡診断」が医師の専売特許として指定されている制度に守られ、底堅い需要もある。

また「死亡診断」は医師が一人で行なう事が出来る数少ない「診療行為」であり、独立した自営業と相性が良い。

不謹慎に聞こえると申し訳ないが、「看取り」は、誰も特に進んでやりたくないが「生業」とするにはけっこう良い条件の仕事だと思う。

折角このような仕事を社会からいただいているので、しっかりと社会に貢献していきたいと思って毎日仕事をしている。

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